ミュージアム部門 エッセイ 石川雄二

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「国会図書館」に親しむようになったきっかけ


小学校5,6年時の担任の先生は沖縄の女子師範学校の出身でした。 晩年に入居された豊島園の近くの施設を
同級生数人と時々訪問し、戦前の沖縄の話などを聞いていました。
 
沖縄女子師範学校は、沖縄第一高等女学校とともに後年の「ひめゆり部隊」として有名になりますが、大正3年
生まれの先生の青春時代は、戦前です。女子師範は、第一高女と同居し、1学年40人の5年制でした。クラス
担任は、後の沖縄返還後の初代知事、屋良朝苗先生(物理)でした。
 
先生の話の中で特に興味深かったのは、昭和8年に大阪
神崎川で行われた「第16回全日本女学校庭球大会」に
沖縄県の特別代表として参加して活躍し、当時大阪にい
た沖縄県人を喜ばせたという話です。
庭球」は、軟式テニス(ソフトテニス)のことです。
大阪時事新報」という新聞に載ったということは、
沖縄県ソフトテニス連盟のホームページで確認でき
ました。 

この新聞、国会図書館に行ったら見れるのではないかと思い、学生時代以来、久しぶりに永田町の国会図書館に
行きました。昭和8年(1933年)7月の大阪時事新報の記事は、マイクロフィルムで閲覧できました。
 
国会図書館というと、全ての出版物が保管されていると思いがちですが、そういうことも無く、新聞の保存状態も
決して良くありません。その中で、当時の新聞記事が見れたというのは幸運でした。
 
該当記事を探して、マイクロフィルムを見てくと、この
年は、歴史的な京都大学の滝川事件が起きた年で、その
裁判の様子が記事になっています。
南満州鉄道増資」の広告が載っています。タイム
マシンに乗っている気分になってきました。昭和8年
日本の空気を感じます。
やがて女学校庭球大会の記事が出てきます。大阪時事新報の主催なので、大会を
盛り上げるために、大会の数日前から、各県からの参加状況が報じられています。
大会自体は、7月30日の1日だけ、試合結果は翌日の紙面に報じられていました。
また、大会後のコラムで、沖縄チームの善戦が書かれており、引率した先生の
名前もわかりました。  
選手は、外間(ほかま 先生の旧姓)・金城のペアで、引率は杉岡先生。試合は、
「4-0」「4-2」「4-2」と勝ち進み、四回戦で広島高女に「1-4」で
敗れます。破った広島高女チームは、この大会で優勝します。
優勝、準優勝とも広島高女でした。  
昭和8年の全国大会に沖縄代表が参加し、大活躍したというのは快挙です。
高校野球で沖縄代表が甲子園に初出場したのは昭和33年です。この快挙を、映画
KANO」のようなドラマにしてくれないかと思い、高校の同級生の マスコミ
関係者に話しましたが反応無しでした。


地図室で、戦前の那覇の地図で女子師範の場所を確認しました。現在の国際通りを北東の方向に進み、突き当たりを
右折した安里の辺です。当時営業していた沖縄県営鉄道(第2次世界大戦で潰滅)の安里駅が最寄りでした。 

この新聞記事のコピーに先生は大喜びでした。
当時の那覇の地図を片手に先生の話を聞くと、80年
以上前のことなのに、先生の記憶が確かなことと、
当時の地図で話の裏付けがとれることに感動しました。 
大阪の試合では、沖縄のペアの強打が話題になりました。
先生の話を聞くと、学校のテニスコートには近所の工員
さんも来ており、一緒に練習をしていたとのことでした。
地図を見ると、学校の近くに「片倉製糸工場」があり、
ここの人たちと練習していたのかと、当時の練習風景が
目に浮かびます。

戦前の学校制度も調べました。尋常小学校6年を卒業した後の進学は、2年制高等科、5年制中学校(男子)、5年制
高等女学校(女子)のいずれかの選択になります。高等科に進学しない人もいます。高等科終了後に、小学校の教員
を目指して(男子・女子)師範学校に進学すると、授業料は無償に加えて給付金がもらえます。沖縄女子師範では
給付金は積み立てて置き、修学旅行費用に充てていたようです。 

なお、中学や高女を卒業して小学校の教員免許を取るためには、師範学校で改めて学ぶ必要があります。このコース
は2年制の「二部」と言われていました。この二部を「夜間コース」と間違えている本を読んだことがありますが、
夜間ではありません。先生とペアを組んだ金城さんは二部の生徒でした。残念ながら先生は2018年8月に103歳
で亡くなられました。
 
このことをきっかけに、ときどき国会図書館に行くようになりました。本は借り出せませんが、館内で読むことは
できます。


漫画も置いています。行くと必ず地図室に行き、古い
地図閲覧します。

例えば、小学校1年まで住んでいた千駄ヶ谷の、終戦
直後の地図。まだ戦前の状態がそのまま残っています。
我が家は競技場の脇でしたが、この地図では競技場の
左に大きな徳川家の屋敷があります。現在の東京体育
館の場所です。

亡くなった母から、関東大震災の際に、一家で深川から徳川家の屋敷前まで避難して来たという話を聞いた覚えが
あります。ここがそうだったのか。 その徳川邸の左下に別の徳川邸があります。

この敷地の一部は現在、将棋会館になっています。その上の八幡神社は、将棋の駒が祭られていることで有名な鳩森
八幡神社で、私はそこの幼稚園を昭和35年に卒園しました。
 
                                               石川雄二(記)



       


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<2020/04/12 文責:石川 HP編集:後藤>