ミュージアム部門 文芸:エッセイ 石川雄二

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国会図書館の楽しみ方


国会図書館を楽しむには体力が必要です。
結構歩かされるのです。

まず、館内のコインロッカーに荷物を預け、筆記
用具など最小限の物だけを持ってゲートに向かい
ます。
   
ゲートを通ると、そこは本館2階の閲覧室です。
閲覧室はかなり広く天井も高い。
空いているパソコン席に座り、資料検索や館内
貸出し請求を入力します。
リクエストした資料が用意できたかどうかは、
パソコンで確認です。用意できたら呼び出すと
いうサービスはありません。用意できた書籍は
図書受取カウンターに取りに行く。
貸出しは3冊までなので、それ以上必要なときは、
読了返却請求受取を繰り返します。座席と図書カウンターとの往復も結構な移動距離です。

コピーが必要な時は、専用端末で複写申込書を出力して必要なページを記入し、原本と一緒に複写受付カウンターに提出します。自分でコピーはできません。 
著作権管理がしっかりしています。複写の完了を専用端末で確認して、受取カウンターで料金を払い受け取る。

  新館4階の新聞資料室で閲覧機から印刷指示すると、受取は新館1階のプリントアウトカウンターです。
地図のコピーの場合は、本館4階の地図室で貸出し手続きをした上で、その地図(大きくて重い)と複写申込書を本館2階の複写受付カウンターに持って行き、上記と同様の手続きをします。
終わったら、地図は地図室に返却に行かなければなりません。どうです?かなりの運動と思いませんか。
ここまでは同一フロア内での移動ですが、新聞のマイクロフィルムからのコピーはフロアを跨ぎます。   先日行ったときは、5千歩歩きました。 
 
 
国会図書館という施設の趣旨からは外れるかもしれません
が、マンガも読めます。
JIN」などの作者である村上もとかの「フイチン再見!
全10巻をここで読みました。

この作品は、「フイチンさん」という昭和30年代の人気
漫画の作者、上田としこの波乱の人生を描いた作品です。

なお、この作品に登場する、としこの友人・弦田英太郎氏
が描いたとしこの肖像画が、北区の十条銀座商店街にある
パパゲ珈琲店」に飾られています。
 上田としこ 肖像画
この珈琲店のオーナーは弦田氏の息子夫婦で、夫人は、
ヤマハの経理部門で活躍された弦田明美(旧姓・四分一)
さんです。なお、この珈琲店は土日のみの営業です。


   
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さて、国会図書館での図書の複写は、原文の半分以下に制限されます。著作権保護のためですが、必要な資料を全頁コピーしたい時は工夫が必要です。   なお、後日、他の資料と突き合わせた結果、昭和7年卒業の「金城春子」さんが、お姉さまであることがわかりました。
沖縄県女子師範学校出身の小学校高学年時の担任の先生の足跡を調べたとき、沖縄県女師・一高女ひめゆり同窓会発行の「女師・一高女沿革史」という、同窓生による文集を借り出しました。   金城春子さんは、この文集を発行した1987年の少し後に、ひめゆり同窓会東京支部副支部長をされています。
先生は昭和9年の卒業なので、その前後の卒業生の回想文を探しました。すると、この文集には、「白球を追って半世紀」という先生自身による回想文も載っているではありませんか。   この文集の1人の文章は3~4頁で、それぞれが独立した作品と捉えられます。446頁から486頁までの全頁を手許に置きたい。
また、先生のお姉さまも卒業生でしたので、複数の方の回想文に「外間(ほかま)姉妹」として出てきました。
お二人ともスポーツウーマンで、沖縄県の陸上競技大会で
活躍されたようです。
  連続した頁を複写依頼すると、著作権管理で断られます。
この場合は、書籍のコピーは2頁が用紙1枚にコピーされるのがミソです。446頁、448頁と1頁おきに複写指示をし、
隣の頁が一緒にコピーされてもやむを得ないという態度をとりました。見え透いていますが、何も言われませんでした。
 
 
古地図を現在と突き合わせて考察する楽しみについて、今回は昭和22年の池袋駅周辺です。
東武百貨店も西武百貨店もありません。駅の西側に「豊島師範学校」、そのさらに左方向に立教大学があります。立教大学は敷地を拡大して現在もこの地にあります。では「豊島師範学校」は? 師範学校は、戦前の小学校教員養成機関でした。   
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戦後は、廃校となった沖縄を除いて、新制大学の教育学部等に改組されました。豊島師範学校は、青山師範、大泉師範、女子師範等と統合されて、「東京学芸大学」になりました。
ただ、豊島師範学校は昭和20年3月の空襲で全焼し、翌年に小金井市に移転しています。
ですから厳密にいえば、昭和22年時点では、この場所には焼け跡が広がっていたと考えられます。
では、現在のこの場所に何があるかというと、池袋西口公園、東京芸術劇場などです。
東京芸術劇場2階のイタリアンレストランのマネジャーを小学校の同級生がしていた頃は、ここが我々のクラス会の会場となり、同級生の連絡場所になっていました。残念ながら昨年辞めてしまったのですが、彼が子供のころ親から、豊島師範へ行けと言われていたとのことです。
我々が子供の時、すでに師範学校はありませんが、この歳になってみると、20年前なんて、ついこの間のことです。当時の我々の親の世代にしても、戦後の学校制度の変更なんて、頭に無かった人もいたのかもしれません。
       


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<2021/04/18 文責:石川 HP編集:後藤>